カナダ 養心館剣道々場 本文へジャンプ
剣道考察日記

2008年5月16日(金)
京都から帰って。

本来、剣道考察日記に書く話題ではないかもしれない。
だが、つぶやきが、セキュリーティー強化で書き込めなくなり、何らかの不都合で、新着情報も書き込めない状態が続いている。

そこで、今、プロに頼んでこのサイトのリニュアル工事をお願いして在る。
此処の来れれる方々に、期待に沿えた?書き込みが出来ませんが、しばらく、ご辛抱いただきたい。

今年の京都、29日に京都入り、今回は日本刀を所持していたのだが、事前申告しておいたお陰で、すんなりと通関できた。
今年は、熊の人生で初めて、居合い道の演武にも参加してみた。以外と雰囲気に飲まれないで、演武出来たと思う。
先生方から、お褒めの言葉をいただけたから、先ず先ずの出来栄えだったのかも知れない。

さて、29日に京都入りしたのには訳が在る。毎年この時期に、羽賀の親父が主催する武講同窓会の居合い道、剣道練成が30日1日と在る。
そこに92歳の親父が出て行くので、そのお世話をしなければ成らない。マタ、今年は正式に剣道の講師として任命されたので、お手伝いさせて頂く事と成った。

剣道の講師の主な仕事は剣道形の指導である。勿論剣道の稽古は有るが、それは自分の出来る稽古をすればそれで良い。だが、剣道形を、居合い道人に指導するには、訳が在る。
剣道人なら、間合いや、打突の機会の捉え方は通常の稽古の中で養われるが、居合い道だけの方々は、仮想敵だけの世界だから、勝手に想像できて、勝手な動作で居合いを抜く事が出来る。

それを誡めて、実際の機会を学ばせる意味合いで、剣道形の実習も課せられているわけです。
居合いにも形詰め、と言う方法の形はありますが、流派が色々参加されている為に、剣道形で間合いと打突の機会を学んでいただこうと言うことになり、5年前から実施されている。

毎年、外国の方々が数名参加されているが、殆ど日本在住の方々が多い。処が、今年はギリシャから4名の方が参加されていた。彼等の中に英語が解る方が居たので、どうしてもその方たちの指導は熊の役割になる。
それがその方々が、上手いとはいえないが、非常に気迫の在る形を打たれる。そこで、お手本として、皆さんの前で披露させていただいた。

それで形演武が終わった所で、皆さんに報告させていただいた。一人は剣道初段、相方は剣道1級。それが剣道形七本を全て遣るので在る。
此処の講習会にあっまっている方々は、殆どが居合い道6段以上の方々、おまけに5年前から形のご指導をさせて頂いている。

それにもかかわらずいまだ3本の方すら満足に打てない方々が殆ど。勿論なかには剣道の有段者、五段以上の方々が半数居るのでその方々はもう一段上の形を勉強していただいているが、問題は、居合い道だけ勉強、もしくは剣道4段以下で居合い道を学んでいる方々だ。
剣道形を知らない方が多いのに驚く。

ギリシャの剣士が、剣道形、七本を人前で演武出来て、日本の居合い道人が形を打てない、何が違うのだろうかと考えさせられざるを得ない講習会でした。
剣道でも、世界に負けた今、武道精神は、もはや日本では育たない状況なのかも、知れないと感じてしまった。

羽賀の親父がポツンと、一人語ちた。「試合の勝ちたい、昇段審査に受かりたい、それだけが目的で、剣道や居合道を遣る連中が増えすぎた。だから本物が育たない。」
目的と、奨励手段が完全に狂ってしまった結果なのだと身につまされた。

2008年4月22日(火)
理解と自覚の差について。

羽賀忠利範士の手紙の中で、要約すると、
頭では、解っていても、体で表現できない、これが理解と自覚の差だというウ事なのだそうです。

「理解」とは理論理屈を聞かされて、三段論法的に論理思索を秩序正しく導かれて頭で理解すると言うすること。
これを理解と言うのであって、これは、「人為的承認」と言う事に成ります。

「自覚」とは、理屈を考える必要も無く、理由を説明される必要も無いく、自然に「そうか」と心から納得できるすることを言うので、これは「自然承認」と言う事になります。

山岡鉄舟先生がよく使用した言葉に、「冷暖自知」と言う言葉がありますが、理屈無しに、水に触れれば冷たいし、お湯に触れれば熱いと言う事が直ちに了解できる。このことを「自覚」と言うのです。

本を読み、頭で理解した事を理解と言い、体験を通し体で了解する事を自覚と言います。

私達が、学ぶ剣道も居合道も、この自覚が大事な訳です。
良師に学び、正しく修行して、自覚したい物です。

この分は、武講同窓会の講習会の席で皆様に配られた書類から要約した者です。

2008年3月29日(土)
萩生徂徠八訓、江戸中期の儒者

人の指導に関して、1991年に羽賀範士から頂いた手紙の中にありました。

1 人の長所を初めより知らんと求むべからず。
   人を用いて初めて長所の現をるるものなり。

2 人は、その長所のみを取らば即ち可なり。
   短所を知るを要せず。

3 己が好みに合う者のみを用うる勿れ。

4 小過を咎むる要なし。ただ事を大切になさば可なり。

5 用うるは、その事を十分に委ぬべし。

6 上に在る者は、下のものと才知を争うべからず。

7 人材は必ず一癖在るものなり。

8 かくして、良く用うれば事に適し、時に応ずるほどの人物は必ずこれあり。

是は熊が、新たな商売を始めようと、計画をしていたときに羽賀範士から頂いたメッセージでした。
ですが、いま是を読み返した時に感じるのは、生徒を指導するという事、従業員を指導する上で真にこのように在らねば成らぬと肝に銘じて取り組んで居ります。

2008年3月18日(火)
森島範士お教え3「機会」

機会、
どんなに体力があり、技が上手く、スピードがあっても、機会を捉えることが出来なければ勝てない。
実を持って虚を打つのが鉄則。

「虚」=隙の無い所は打たない。隙があったら逃さず打つ。
隙が無ければ、崩して隙を作って打つ。

以上要点のみで分かり難いと思いますが、工夫してください。

百錬自得。稽古、稽古。稽古在るのみ。

と暖かい励ましのお手紙を頂きました。

2008年3月11日(火)
森島範士の教え2「理合いを工夫する」

理合いとは、刀法上の理論。試合に勝つための合理的な方法。
と、書かれています。そしてそれには、

心法(心の持ち方)
刀法(技)
身法(構え体捌き)

この、三っがまとまった時に理合いと言う。とかかれています。

理合いの要素の中で、特に大事なことは、

1呼吸、A(心法と関係、呼吸が乱れると心が乱れること、必定。丹田呼吸、詰り腹式呼吸を日ごろから訓練する事。)

2間合い、および間、B(間合いは相手との距離。間とは相手と構えたときの全ての関係。この間を自分に有利にする。是を「乗る」と言います。乗られて技を出したら打たれに行くような物。)

技〜間合いの攻防の理合い、(三殺法)〜気合〜技〜心の働き、この全てが自分に有利の場合を自分の間と言う。

「気で攻めて、乗って、破って、崩して打つ」

と、書かれて居ます。深いですね。


2008年3月3日(月)
初太刀

剣道では、良く「初太刀を大切にしろ」とか「初太刀を譲るな」と言う教えを受ける。
そもそも「初太刀」とは何か。

私が考える初太刀は、相手と刀を抜き合わせて自発的であろうが、後発的であろうが、、初めて動く動作、切り込む動作が、「初太刀」だと考えている。

初太刀、と言っても人それぞれ捉え方が違う。最近では「初一本」等とも言う人が居るが、初一本は、現行の三本勝負の試合の中から生まれてきた言葉だろうと推察するが、その三本勝負では、初一本を取るまでにどれだけかの無駄打ちの末に、一本を取れる場合が殆どである。
その観点から見ると、初太刀と初一本は似ても似付かぬ物と言わざるを得ない事になる。初太刀は、それで、生死が分かれるのを初太刀と言うのだと、解釈している。

森島先生からの手紙の中で、「誰と遣っても、初太刀は必ず取れるように」と書いてあり、又、「初太刀を打たれると、落ちる」と書かれていた。「難しい事ですがそれを実践できる努力をしてください」と結ばれていた。
初太刀=生死の境。其処には三本勝負のようなゲーム性は無く、遊びも無い。だから、昨今の試合は=試し合いであり。仕(死)合うとは完全に次元が違う物だと考えたい。

今、普段の稽古で、若い剣士達と稽古をしているが、その稽古相手から、如何に初太刀を奪えるか、その工夫に明け暮れている。
それには、先ず気の充実しか方法は無い。体は勝手に動く。逆に色々考えて望むと、墓穴を掘ることに成る。

自己を信じ、「サーどうぞ」命を投げ出して、初めて、初太刀が物に出きるのだと感じている。
自分を高め、強くなる為の秘訣が、此処に在るのだと考えている。様は、一太刀、一太刀が命がけだと感じながら稽古をすることが、一番大事なのだと思う。

2008年2月28日(木)
宝物

恥ずかしい話だが、探し物をしていて、とんでもない宝物を発見した。
それは、先妻が、折につけ、大先生方から頂いたお手紙を、ファイルにして保存してくれていた物が出てきた。

その中に恩師の一人、榊原正先生の手紙がに、貴重な教えが書かれていた。
榊原先生は心臓を悪くされて、お稽古を中断されたが、その中でも、剣道は研鑽されていた。丁度、「求める味」を書かれた直後に頂いた手紙です。

「病に倒れ唯今は負荷の為に素振りを毎日八十本振っています。振り上げ振り下しで、対角線運動が分かりかけてきました。
振り上げに左上体が少し前に出し、振り下しに右上体を前に出し右手肘を充分に延ばすとものうちに冴えが出てきます。研究してみてください」

と、在りました。

他のも、まだまだ、たくさんの大範士の先生方からのお手紙の中に尊い教えの一説を今心弾ませながら読んでいます。
少しずつ、此処に書いていきたいと思います。お楽しみに。

2008年2月17日(日)
剣道形

先日、剣道大会会場において、アメリカの剣道七段の先生から相談を受けた。
形について質問が在るという。

その内容は、剣道型の教本(ビデオ)を見ると、解説と、行われている形(演武者)と食い違いがあり、生徒に教える時に困る。どちらが正しいのか?
彼が言うには「構えあった時は、刀は横手、と横手が接する間合い。其処を一足一刀の間とするならば、其処から打ち込まなければ成らないはず。だが、実際の画面では打ち間はもう少し、近間になっていて、生徒から、質問が会って困った。」のだと言う。

私は、彼に、諭した。「剣道形は、型で捉えるととんでもない事に成りますよ。なぜなら形は生き物です。お相手の強い、弱いで間合いも異なれば、機会と言うのは、万人全て捕らえる感覚が異なる。剣道形は、機を見て打てとあります。
若し、仮に機会が無ければ打ち込めないはずです。ですから、型にはめ込んで覚える型は初心者の形で、一応こ高段者に成れば、間、機は生きていなければ本当の形にはならないのではありませんか?」と言っておいた。

昔、大昔?中山博道範士と、斉村五郎範士が形を打たれた逸話が在る。

斉村範士が若かりし血気盛んな頃で、天下の中山博道範士にチャレンジ?した逸話である。
日ごろから、居合いも、杖道も、剣道も達人の中山範士は本物か如何か試そうと思われたらしい。

剣道形をお二人で打つ事があり、当然、先輩格の博道範士がウチタチを勤められた。シタチの斉村範士は、打つべき処を変えて打った。

処が、博道範士はそれをものの見事に、受けてかわされたと聞く。
いま、そんな形を打てる方は殆ど存在しないであろう事は、想像に苦しくない。

詰りその時、お二方が打たれた方は真剣勝負、生きた形で在ったからこそ、出来えたことではなかろうか。
その後、博道範士は、二度と、斉村範士と形は打たれなかったと聞くし、シタチを好んで打たれたとも聞く。

形が真剣勝負であればこそ、間、機会、は生きていなければ成らない。昨今お目にかかれる形は、「型」になり、「形」をお目にかかる機会が少なくなった気がする。

2008年2月4日(月)
CDの効果+アルファー

今日、手元に剣道日本3月号/08が届いた。

その中に付録として、佐藤博信範士が解説する「上級者の剣道」と言うCDが入っていた。
自分の師匠の一人である範士の説明は如何にと思い早速、試写。

殆ど新たな発見が無かった。と言うのは以前からご指導を受けていた通りの解説で、別段改まっての事では無かったからで在る。
唯、あの解説の中で、範士が触れられなかった秘密が在る。

それを此処で、このサイトに来て頂いた、方々にお土産として公表しよう。
博信範士は、あの解説の中で肩の力を抜き腕を楽に使うように手の内の説明の中で解説されていた。
範士は、肘の使い方には言及されていなかった。それが熊には不思議?と言うか、多分其処は範士も秘密にされている部分なのかな?と感じたからだ。

範士の肘、特に右肘の使い方は、範士のあの絶対的に強い業の返し、応じに見事に反映されていると熊は信じている。
殆どの剣道家は肩の力を抜き、手首を軟らかく、スナップの利いたうち方を研究されているとは思うが、肘の脱力、軟らかさに着岸されている方が少ないように思う。

CDの画像の中で、立会い、模範演舞をされて居た方々でもやはり肘の使い方がイマイチで返し技に一種のぎこちなさを見て取ったのは熊だけではないと思うので有るが、如何か・・・・
もし、この日記をご覧になられ、御自分の稽古に、反映させてみようとお考えの方が居たらお試しあれ、意識して肘の力を抜く事です。非常に打ちが鋭くなるし、返し技が楽に使えるようになる筈です。

2008年1月15日(火)
本当に強くなると言う事
長い間、仕事が多忙で、書き込みが出来ないで居ました、今も多忙は変わりないのですが、新たな従業員達が仕事に慣れてきたので、幾らか余裕が出来ました。

以前のように書き込みは難しいのですが、少しづつ更新していきます。よろしく。

 

今の剣道界では、試合に強い選手=剣道が強いと思われているようです。

私は、試合に強いのは剣道が上手い人で、剣道が本当に強い人なのかといえば、?を抱いてしまう人間なのです。

 

確かに、剣道も本当に強く、地があり試合も強い人もまれには居ますが、私のみる所、殆どの選手は上手さで勝負しているように見えます。勿論、試合も強く、自力が在る剣道が理想ですが、中々そうは行きません。

 

昔、榊原 正範士に言われました。「剣道が上手いのと、剣道が強いのとは違うぞ。だから本当の実力、地力をつける稽古を積みなさい。」と言われたことがあります。

 

今熊の手元に一人の少年が熱心に稽古に通ってきています。他道場の子供ですが、熊は剣道が好きで、熱心な子供なら、他道場であれ何であれ構いません。真剣に指導に取り組みます。

 

その子が最近、試合に勝てるように成って来ました。勿論、親御さんも勝つことで喜びを感じ、次の試合も勝つことを、当然のように子供に期待するはずです。

子供も親の期待を裏切らない為に頑張るはずです。試合が近くなってきました。

それとともに、彼の剣道が少し変わり始めて、焦りが出てきました。

 

まだ子供です、当然自己のコントロールが完全に出来ていません。打ち気に逸る余、右手に力みが出てくるのです。そうすると当然、剣先が浮きやすくなり、打ちにも冴えが出てきません。

 

彼の場合本当に素直で剣道、稽古が好きなようです。研究もしますし、だから進歩も早いのですが。熊は一抹の不安をぬぐえないで居ます。試合に戦々恐々としている間、本当の実力が中々身に着けにくい。できるなら三年間くらい試合から離れて、地を練ってくれたら良いのにな〜と思っています。

 

 

 

 

2007年8月13日(月)
打たれに来る

今から15年位前になるか、羽賀の親父がマダ元気で稽古をつけてくれていた頃、熊が掛かっていくと、いとも簡単に出鼻を打って取られてしまう。
何故なのだろうと愚問を聞いてみた。何故あんなに、簡単に出鼻が取れるのか、親父が言うには、「お前が打たれに出てくるかただ。」と言われて、悔しい思いをした思い出が在る。

その意味合いが、15年経った今、少しずつでは有るが、何となく分かりかけてきた気がする。
それはどう言うことかと言うと、人間,誰でも打ち気にはやる時は、瞬間的に目クラに成る。詰り打とうとする瞬間に筋肉が硬くなるのだ。
其処を狙えば以外と簡単に打てる事が理解できるようになって来た。勿論、剣道をする人それぞれに到達しているレベルがあり、格差は当然あるのだが、

それでも間違いなく、どんなレベルの人であろうとも打とうと心が動いた時は硬くなるのである。
ただ、その腕前により格差が在るということは、硬くなる瞬間が少ない人が上手な人であり、沢山出る人が初心者なのだと言う事なのだと思う。

大いなる気勢で打ちかかる。その中にも、懸待一致が求められて、その中で、溜め、見切りなどが要求されてくるわけだから、可也高度な判断を瞬時繰り返さなければ成らない。その上、肉体の筋肉コントロールまで、遣らなければならない訳であるから、筋肉を硬直させないで相手に対処できる位に成るのは不可能に近いわけだ。

だから昔から、どんな名人でも打つ瞬間は隙が出来ると言われる所以なのだと思う。

剣道の稽古は肉体的に、いついかなる時でも難さが出なくなれば技術的に完成だと言う事になるのだと思う。勿論、その為に、心の問題、にも、触れて修行しなければ理解は出来ない
でなければ、不動心、平常心、などと言う言葉の必要性も無くなる。

打たれに来て(行って)いる間は、剣道修行が続く。それを完全に克服する為に人間は剣道を通しての修行をしているのだと思う

2007年8月4日(土)
足の立ち幅

以前、MIX@交剣知愛の養心館、分室で、足構えの幅について書いた事が在る。
通常、少年指導要綱の中では両足の幅は拳一握りとされているのだが、熊が、カナダのSKI指導員試験を受けた時に、日本ではスキーを揃えて滑る癖が着いていたのを、矯正された事が切欠で、足の外側の立ち幅は、腰の幅ではないかと言う考えになり、それを実践してきた。

その方が腰が安定するし、前進打突の動作の足の力が無駄に成らない感じが掴めたからだ。
そうしたら、昨日、手元に届いた、剣道日本の中で、佐藤博信範士が、自然体の構えの説明の中で、やはり熊と同じ事を唱えられていた。四角く構える。腰と足の外幅は同じにすると書かれていた。

偶然の事なのだが、やはり佐藤範士も長年の経験と、稽古の積み重ねでそのような結論に達せられた物と思う。


足幅を、一握りにすれば、上半身がヤジロベイのようになり、横の捌きをするには不向きに成る。
それに安定性を欠くことにも成る。そこで足の外幅を腰の幅に構えれば腰の体重、いや全身の体重が全て均等に両足で分担して支える事になり、出る、引く、横に裁くが用意に成ると言うことに繋がるのだと思う。

詰り正しい足裁きを絵を会得する為には非常に大事な事なのだと改めて確認できた事が嬉しい。
小さい事だと思うかもしれないが、工夫をして自分で会得した事が、大範士の考え方と同じになる。
こんな時、初めて自分の考え方、指導法が間違っていなかった、という確認が取れることが、大いなる自信にも繋がっていくのだと思う。


剣道はやはり工夫工夫の繰り返し、そしてその確認が、必ずやどこかで取れることが嬉しい。

2007年7月21日(土)
白隠禅師

最近、読んでいる本で、白隠禅師の逸話集が在る。

白隠禅師は、無刀流開祖、山岡鉄舟の禅の師匠だ。そのほかにも、白隠さんは沢山の大大名にも禅を紐解いた方だ。

その人なりは飄々として、ユニークな方なのだが、明治の時代にまで生きた方なので、記録が確りしている。

その白隠さん、その修行の激しさは、そのユニークさとは裏腹に物凄い修行を積まれたらしい。

いや、逆に言えば、その激しい修行がゆえに、人間としての在り方が出来上がり、どんな時でも泰然自若としておられたのであろう。

まあ、時代が時代だが、大名を叱り付ける禅坊主もそうざらには居まい。
相当の覚悟が要るはずだ、まかり間違えば首が飛ぶ、それを物ともせず叱れる勇気。
真人の修行をしていたから出来たことで、われわれ凡人の及ぶ所ではない。

今の剣道界を見渡しても、いろいろ言われているが、本当の勇気の在る、腹の出来た方が存在しないという事だろう。

目先の欲似振り回されて、自分の保身に、功名心にだけ煽られているような世界では、本当の剣道修行など、白隠さんから見れば、臍茶物に違いない。

マア、日本全体が可笑しく様変わりをしてきている背景を見ても何も出来ないのだから、言うだけ無駄なのかもしれない。

恐らく、現代では、小川忠太郎先生没後に人物は居ないことだけは確かなようだ。

こんな事を平気で言う、だから熊は嫌われるのだ。分かっている別に嫌われたって何の事はない。
正しい事は正しいのだ。


真理は真理なのだ、天は嘘をつかない。連綿と、老害を垂れ流しにしている、何処かの連盟の会長、役員よりはましだと思うからである。

試合を偏重する余り、勝ち負けにこだわり、負けた選手を未だに不甲斐ない等と、言い捨てる。

自分達が指導してきた剣道が可笑しいから、負けただけの事ではないか、その責任を選手にぶつけ、のうのうと会長職に留まる。昔から言う、敗軍の将兵を語らず、こんなことさえ出来なくなっている。

その会長の首に鈴さえつけれない、保身、功名心の固まり連中には、出来るはずがない。
剣道が何処に行くか、このままでは、当てっこ剣道から、絶対に脱却できない事だけは確かなようだ。

白隠さんの逸話集を読めば読むほど、その偉さに心を打たれる。

2007年7月13日(金)
猫に小判

猫に小判、どんな意味に使われるのであろうか、猫はお金の使い方を知らないから、小判を持たせても無駄だ、と言う意味なのか。

だが、良く店に飾って在る招き猫には小判を持たせて在るものが在る。何か他に意味が在るのだろうか、不勉強な熊には分からない。

昔、小川忠太郎先生と話をしていた時、3歳の赤子が、禅の高僧と出合ったとしても、そのお坊さんの徳は分からない。と言われたことが思い出される。
詰り、猫に小判と言うのと同じなのではと考える、だが、これは何も赤子とだけは限らない気がする。

我々が学ぶ剣道、お互いに相対して、其処から学び合う物、それは、大変に奥深い物が在ることは疑いを持たないが、では、その奥深さをどれだけお互いが感じあい学び合えるかと言う事に成ると、一寸,待ったを掛けなければ、話は出来なく成るのではなかろうか。

剣道人の会話の中で、良く耳にする言葉で、お互いが剣先で物語をする。剣先で話し合う。と言う話が出る。これはお互いの力が在る程度拮抗しているから話し合いも出来るのだが、若し、力の差が大きい場合は話し合いも何もあった物ではないはずだ。

我々が日ごろお稽古を頂く中で、お相手の方々から何かを学ばせて頂いている訳だが、その学び方を知らない人がお相手に来たら、それこそ話し合いには成らない。

だから、剣道は、どんな相手の方とでも遣れば良いという物でもないようだ。だが限られた中でのお相手、その方たちにも話し合いの中に参加していただける努力も必要になって来るのだと思う。

剣道は、何だかんだ言っても、お相手がいなければ、剣道には成らない。この辺にいつも難しさを感じてしまう。

だから、段々出稽古に行かなくなるのだと思う。自分の道場の生徒なら話もして聞かせる事ができる。
だが他道場では気をつけないと、其処の先生の顔を潰す事にも成りかねない。

先生方が、剣先での話し合いの意味すら分からない連中が先生をしている事が多いからだ。

だが先生としての変なプライドだけは持っている。だから熊から学ぼうとはしない。熊に良いカッツコウされるのが嫌なのだ。だから此方も無理には出かけない。
そんな煩わしい思いをする位なら、一人稽古の方が余程身に付く。

前回日本から有名範士がカナダに来ている事を、噂で聞いた。熊の処には何の連絡も無かった。だがその範士は熊とも顔見知りだから、カナダに来ているのに、挨拶が無かったなどと言われたら、心外だから、出掛けてご挨拶をさせていただいた。

熊は、千葉範士がお見えに成る事はカナダ西部、シアトル近郊の道場主全員に連絡をし招待をした。
それが剣道家の礼儀だと信ずるからだ。剣先での話し合いをする前に、剣道家としての礼の心から学ばせねば成らない程格差が在る。猫以前、そんなカナダの西部地区で熊は剣道をしている。

2007年7月7日(土)
手と足

剣道は、先ず視覚神経で相手の動きに対処する。相手の気を読む等とは可也熟達した人のいうことで、殆どの剣道家のレベルでは、視覚に頼っていっても過言では在るまい。


目で見えたものを脳が瞬時判断して、如何対応するか決めているのだ。若し、剣道する人が全盲であれば、剣道は成り立たない。


これを以前、研究された方がいたらしいが、答えは全盲では剣道は不可能と言う結果しか得られなかったと聞く。

先ず相手の動き、気配を、視覚で脳に伝達され、それが、反射神経に伝達されて、こちら側の動作を起こす。ということだと思う。


それでは、脳で感知した信号を、どのように、体に指令を出すのであろうか。多分、脳に近い部分から伝達されるであろうことは容易に想像できる。
詰り、足より手のほうが伝達が早い、ということに成ると思う。

ご自分の稽古を振り返って頂ければ分かると思うが、足より手が先に動くのが通常だ。
だが、高段者の中で、極まれに、今は非常にすくなくなった、スピード重視の剣道に変化した為だと思うが、非常に足捌きの良い範士の方にお目にかかる事が在る


構えを崩さず、足で間合いを取り、お相手の攻撃を裁く。最近は少なくなったが一昔前は、こんな沢山の範士にお目にかかれた。

剣道で、本当に凄いと思うのは、そう言う運動神経や、反射視神経を超越して、初めて求める運動が出来るように成ると言う事だと思う。


先ず自分の剣道のレベルを引き上げたいと感じたら、手よりも足の動きに重点を置いて見るのも又面白いかもしれない。


手は、ほっておいても、脳の指令に順応性が高い。だが足は中々そうは行かない。だから、そうでない所から、不自由な所を、自由を得るようにするのが、早道だと考えている。

2007年7月2日(月)
一拍子の打ち

昨夜の稽古で、一拍子の打突を指導する中で、生徒に分かり易く説明した。その時、気づいた事が有る。

俗に言う、一拍子だが、その一拍子も分解すれば、三段階の動きに分かれるのではないのだろうか、その方が自分自身も動きが理解しやすいし、遣る方も簡単に理解できたようだ。
先ず、一拍子の打ちは0から100への移行では有るが、タダ、漠然と0から100には移行できない。

そこでこんな風に考えた。

@打とうとして、気が前に出る、幾分体重が前に乗る。
A打突動作に入る為に、左足で床を蹴り初め、右足を床に摺らせて、体を前に移行する。
B最終的に、右足を踏み込むと同時に撃つ。

@とAの間は上半身に動きが無い。どちらかと言えば剣先を中心から割ってはいる攻めの状態。
Bで初めて竹刀が動き右足の着地と同時に竹刀が面を打つ。

と言う風に三段階の動きが有ることに気付いた。
@の段階は気の起こりとも受け取れる段階。
Aは攻めの持続、実行の段階、勿論、気攻めは最初から持続していなければならない。
Bで上半身が打突をカタチ作る段階。この時、左足の蹴りの力が最大限になっている。



勿論これらは全て連動していなければならないが、俗に言う一拍子の打ちでも分解してみると非常に分かり易くなると思う。

2007年7月1日(日)
リバケン

俗に一時期剣道から離れて、剣道に再度復帰された方々を、リバイバル剣士、からリバケンと呼ぶらしい。

実は、熊もリバケンと言えばリバケンなのだ。高校を卒業後、6年間は、殆ど竹刀は持たずにすごした。

1年に一度か二度は何らかの事情で、仕方なく持った程度。だから完全なリバケンと言えると思う。

昔の、先生方も殆どの方がリバケンなのだ、何を言おう、わが師、羽賀忠利も戦後何年間は竹刀を手にしていない。それは戦中を生き抜いた剣道家は全て同じ条件の下にさらされたわけである。

戦後、7年間はGHQにより剣道禁止令が発令されていたからである。隠れてやっていたと言う方々も居るにはいるが、さほど多くの方々が、隠れ稽古をしていた訳ではない。

食糧事情が悪く、生き抜くだけでも大変な時代で有る。
剣道の心は持ち続けても、実際は、稽古が出来ない日々を送られた事は間違いない。
 

中には、楢崎九段の如く、戦犯容疑で刑務者暮らしを余儀なくされた居た方や、公職追放の憂き目を見ていた剣道家がどれほど多いか。

その事を考えれば、現代の、我等が、リバケンに成ったのと、同じ条件ではないか。そう思うと、気が楽になる。

大丈夫だ、自分達もこの後の努力次第では、範士の道も開かれていると言う事になりはしないか。

熊が此処で言う、範士の意味合いは、何も名誉的なことではなく、修行としての範士の位にまで自分を昇華させていくことができるということを言いたいのだ。

リバケンだろうが、高齢から始めようが、剣道は誰にでもその努力に公平に報いてくれる。

だから、泣き言はいっさい無い世界なのだ、自分のやっただけの事が、表に出るだけの事なのだと言う事を認識する必要が有ると思う。

昇段受験も、稽古も、何も、全て自らの努力の道しるべなのだ。 努力をしようではないか。

2007年6月26日(火)
打突は緊張からの開放だ。

この言葉は、千葉仁範士が、養心館の講習会で教えられた言葉の一つだ。イメージ的には素晴らしい表現だと、感動した。

これは剣道全般、全てに繋がり言える事だとも思う。


打突の瞬間。竹刀を振り上げ振り下ろす、 筋肉の緊張、その力を打突の瞬間に解き放つ。それで物凄い、勢いと、冴えが出る。


又、攻め、懸待の一致、緊張からの、一撃で捨てきる=開放。


溜め、見切りからの、緊張からの、一瞬の打突への開放。

脱力との関連も、この言葉で言い表されるではないのだろうか。

昔の古歌に、「振り下ろす太刀の下こそ地獄成れ、ぐっと踏み込め、後は極楽」と言うのが有る。


まさにこれに置き換えることも出来る。振り下ろす太刀の下。究極の緊張である。其処をぐっと踏み込む勇気で、開放される、恐怖感。


捨て身の境地を説いた歌だが、まさに緊張からの開放そのものだ。

こうして、一つ、一つの言葉に極意を見出し、それに体をかけて修行していく。
この修行も、一生懸かる修行の一つだと、心に秘した。

2007年6月24日(日)
一刀で捨て切るという事

6月22.23日と二日間千葉仁範士にお稽古を頂いた。そして昨日の懇親会で話された言葉に、非常に大切だと思う事をご教授いただいたので自分の為にも書き記しておこうと思った。
此処からは範士の言葉である。

「剣道で、打つ打たれるを遣っている間は剣道ではない。相手の中心を攻め、その中に相手の心が動くところが有る、其処にきたら、一拍子で、捨て切って打ってこそ剣道に成る。打たれまいとして、相手の剣を避けたり、姿勢を崩して逃げて打たれずに打とう、等と、醜いことを遣っていてではダメだ。そんな物は剣道とは言えない。
ここぞと見たら、思い切り一拍子で打って出る。それで返されたら、反省できる。それを ゴジャゴジャにしてしまうと反省に繋がらない。だから、進歩が出来ない。」

まるで日ごろ熊が口にしている事と、〃ことを口にされた。
この話を聞きながら、七段と八段の断層を見たような気がした。

この一拍子で捨てて打ち切る修行を理解して出来る人が八段に成れる。
それが理解できないで、打つ打たれるの段階で遣ってる人が七段で止まる。
その修行に気付いて体をかける人が100人に一人なのだと感じた。

それにしても打たれずに打とうと言う人が多い。今回の稽古会に参加された高齢の七段の先生が居たが、何時も範士からこの話を聞いて居るのですが、
人間が頑固で、叩かれるのが嫌な者ですから直りません。と苦笑いをされていた。

そして範士は、これは私が出来るということではないが、だから私もいまだ一生懸命それを追及しているのですと言われた。
剣道の究極の所はこれしかないのだと熊も強く思った。

2007年6月21日(木)
剣道の強さは心の強さ

剣道、やはりその中に有るバロメーターは、何かといえば強さだと思う。
大昔、某範士が冗談で八段審査の事を話した事が有る。

今と違い当時の八段審査は剣風、風格を重んじていた。

今は。どちらが打てるか打てないかが基準になっている。

その時に、某範士が言うには、「審査のお相手は剣風が良く風格が在り、剣道が強くないのに当ると幸運だ」と言われたことが有る。

当時、三四段の頭では、成るほどと感心した記憶が有る。一見強そうで、実は強くない。 そんな人と対戦できれば幸運だという事だ。

誰の目に見ても強そうなお相手を、若し打ち込めたら、それは合格間違いが無いと思う。マア、これはあくまで冗談での話だが、単純に笑えないのが可笑しい。

そこで、剣道が強いか、弱いか検証してみると、宮本武蔵が素晴らしいことを書き残している。彼は真剣試合に望み、「神仏を尊み、神仏を頼まず」と喝破している。

処がこれの、「神仏を頼まず」だけ取り上げて宮本武蔵は傲慢だ、と言う人が居たが、それは間違いだと思う。

何故なら、武蔵は、先に、「仏は尊み、」という事をはっきり述べているからである。

これは凄いと思うのは熊だけでは有るまい。分かりやすく言えば、
神仏は尊い存在では有るが、物事を祈祷、お願いする存在ではない。ということをはっきり言っているのだ、と解釈している。

では仮に、年頭にお参りする神様は、お賽銭の上下で、お参りする人の上下を決めているのであろうか。若しそうなら、笑わざるを得ない。

むしろ武蔵は、真剣勝負は、神頼みよりも、自分を信じろと言いたかったのだと思う。

では二人の剣客が、〃神様に、同じお賽銭の額でお祈りされたら、神様は 如何決断して勝敗を決めるのであろうか。
そんな矛盾を、諸共せずに、喝破しだに過ぎないと思うので有る。

ということは自分自身が強くなければ物事は解決、勝を得る事が出来ないのだという事に、なりはしないか。

神頼み、されど神頼み、自分の心の弱さを神に祈るのは一番卑怯な遣り方だと熊は考えている。

自分のことは自分で解決するしかないのだと、自分に言い聞かせている。

だから剣道も心構えが軟弱では、目的達成など夢のまた夢。勝 は得られない。

2007年6月17日(日)
自分の稽古を見る

文明の発達は、人間本来の生きる使命。と言った人が居た。
確かに文明の発達は人間だけに与えられた特権、 文明の発展のお陰で人間は多大な恩恵をこうむっている。

我々剣道家でも自分の剣道が容易に見れる時代に成った。最初はビデオ、最近はDVDで簡単に見れる。

熊が一番初めにビデオで自分の剣道を見たのは、1982年の時、佐藤博信範士との稽古。当時6段。今観ても思う下手糞な 剣道です。

でも、それがきっかけで、最低でも一年に3〜4回写して記録に撮って来ました。自分の過去の稽古記録は自分の修行の段階を事細かに再現してくれています。

そして、その時々の自分の課題も鮮明に浮き彫りにしてくれる。先ず自分の稽古を見て、下手だな〜とは思っても、自分で良いな〜と思った事がない。

それは何故、自分が理想としている師匠の方々の剣道と比較してみるからだと思う。
脳裏には鮮明に師匠の方々の剣道が、インプットされている。


自分ではそれに近づきたいと念じながら、稽古をしているが、比較してみると程遠い事が分かるからだ。


だから自分の課題も見つけやすい。何処が如何違うか自分の目で確かめられるからである。通常 、自分の稽古は自分で分からない。だから、簡単に妥協して大体これで良いだろうと、妥協してしまう。

だが、ビデオやDVDの画像は嘘は記録しないので、現時点の実力をそのまま見せてくれる。これは非常に参考に成ります。

自分の周りに良い指導者が居ない場合、ビデオを活用すれば良いと思う。

自分が上の先生と稽古した物、、したの人と稽古したもの、それぞれ必ず問題点が発見できるはずだ 。

自分で自分の問題点が分からなければ、自分の剣道の将来は無いと、諦めた方が良い。

なぜか、自分の欠点に気がつかないのは自分自身治しようが無いからです。
自分のイメージの中には、師匠や、憧れの剣士の残像が残っているはずです。
それと自分の稽古を比較してみればわかること だからです。

それが分からなければ何を勉強していいかも分からない。
だからビデオや、DVDを大いに活用すべきだと熊は考えています。

そのお陰で、常に師匠が居ないカナダででも、何とか此処まで自分の剣道を進化させながら、稽古を続けてくる事ができました。

ですから、全てにおいて、環境は無ければ自分で作り出すべきだと考えています。

2007年6月14日(木)
自分が思う剣道

人それぞれに自分で思い描く剣道のスタイルが有るものと思う。試合中心に考える人。精神修養の克てとする人。

私自身、大それた事が言えるほど、剣道を極めたわけではないので、大きな事は言えないのだが、どちらかといえば、剣道を通じて人間的に豊かに成りたいと考えている。

唯、最近剣道界を見渡すと、試合だけが重視されて、試合だけが独立して剣道そのものと言わんばかりの取り扱い方をされているのには少々辟易している。

どの剣道雑誌を見ても、試合結果にどれだけのページ数が割かれているかを見ても分かる事だ。残念な事だと思う。

確かに試合で克つというう目的の為に努力する事は尊い事だと思うが、その試合に勝たんが為に、剣道本来持つ、日本人の心までまげて、反則にならなければなんでもする、勝ち方は如何な物かと何時も不愉快に思う一人である。

だから今の剣道の試合には、正々堂々と戦う試合なぞと言うのは、殆ど垣間見れなくなってしまった。武士道精神の面影は今や試合剣道の中には見出せないくらいに堕落してしまった。

大体が剣道、何故三人の審判が必要か。理解に苦しむ。
剣道の稽古中でも試合中でも、打たれれば、打たれた本人が一番早く分かるはずだ.


武士道で、道を求めて剣道を学ぶ者なら、打たれたら謙虚に負けを認めれば良い。
なにも第三者の意見など必要がない筈だ。


試合中は極限の興奮状態だから、打たれたことが分からない人が居る、その為に審判が必要という人が居たが、本当にそうだろうか、先ず極限の興奮状態に成ること既に負けであるはずである。それを考えると、 理屈と膏薬は何処にでも着くということが分かる

少なくとも打たれて感謝、打って反省、という剣道本来の姿を自分の心の中においての稽古、試合ならば、審判は自己でやれば良い。

間違いだらけの多数決などに頼らなくても良いではないか。

それとも第三者に決めてもらわなければ自分で判断が出来ないくらいその方々はお粗末な剣道をしているという事だろうか。

自分が打たれたか打たれなかったか、自己の正しい心が在れば、自己判断で出来るはずではないか、

逆に審判、第三者が判定する事で、自分の心を否定されている事に誰も気付かない。哀れとしか言いようが無いではないか。

私自身も京都大会で試合?立会いにで出る。勝ち負けは問題ではない。剣道家が集まる、 目の肥えた、剣道家だけの中でいかに自分の日ごろの剣道ができるか、それを見極める為に参加をしている。

自分の勝ち負けを人に決めてもらう為ではない。
完全に打たれたと思ったら、審判が手を上げなくても、お相手 に頭を下げて引き返すであろう。

それが本来武士が学ぶ剣道だと思うからであるし、先ず打たれる前に負けが分かる。攻め 負けたら打つ必要も、打たれる必要も無いと思っている。

2007年6月8日(金)
質問に答えて

神奈川県の先生から、質問を受けた。子供や,大人の初心者が歩み足で面を打つのだが、一拍子の打ちにならないので何か矯正方はないかとのお尋ねです。


先ず厳密に、一拍子のうちと言う事になると、可也の高段の方々でも出来る方々はわずかな数ではないかと考えます。

なぜなら、以前この日記の中でも書きましたが持田先生が50年かかった身に付けた打ち方が一拍子の打ちではなかろうかと推察したからです。


ですが、それはそれ、段階的に一拍子で打てるようになる努力はして行かなければ成りません。

そこで、先ず歩み足で左足が前に出て振りかぶり、右足を出す時に打ち込む。この二拍子 の打ちを直させるためには,いくつかの矯正法があります。


先ず面を打つときの足捌きには、大きく分ければ3種類有ると思います 。

1送り足、右足左足右足と動かして打つ場合。遠い間合いから攻めて打つ場合に良く使われます。 この時にも歩み足になる場合が多い。

2継ぎ足、一寸間が遠いかなという時、左足を引き付け、直ちに右足で打ち込む。継ぎ足からの面。

3にその場から、左足を動かさないで即座に打ち込む、出鼻面のような形の物。 これが一番一拍子に近い打ち方になると思います。

 

では何故歩み足になるかを考えてみたいと思います。間合いが遠いと感じるからではないでしょうか。間合いが遠いと感じるから近くに入らなければ打てない。

 

それと打つときのタイミングの取り方です。振り上げて、振り下ろす。丁度左足を踏み変えて右足を出すのとタイミングが合うからです。

 

そこで矯正の方法とすれば、その二点を先ず解消する事を考えてみて下さい。


先ず、間合いは打ちやすいように少し近間で打たせることです。最初から遠い間合いで遣らせようとすることは欲張りすぎです。初心者は竹刀の長さすら感覚的に分かりません。

 

ですから、自分が打てるという間合いを取らせます。

二番目は、タイミングですから、一拍子を意識させるためには、左足の蹴り出しで打つことを学ばせなければ成りません。

そこで、先ず構えたまま、剣先を上げる事なく右足を少し前に滑り出させて、其処から打たせるようにさせてみた下さい。

こうすれば嫌でも一拍子でなければ打てません。初めの間は打突後の左足の引き付けも余りやかましく言う必要はありません。一拍子で気剣体の一致で打つ感覚を掴ませてから、次の動作のリクエストを加えていくようにします。

 

剣道はいくつもの複雑な動作を一度にしなくてはなりません。ですからそれを出来るだけ分解して、分かりやすく遣らせる方が早道です、急がば廻れでは在りませんが、その方が理解しやすいと思いますよ。

 



 

2007年6月5日(火)
ご無沙汰でした

自宅と仕事場で書いていた日記。何かに手違いで上手くカキコが出来ませんでした。久々に書いてみます。

最近、自分の剣道の中で異変が起きています。京都大会の後,心にしたお土産、新たな課題に挑戦しているからです。

一つは残心。一つは、本当の不動心。それに、絶対の強さ。これを何とか身に着けたい、と考えて稽古に取り組んでいるからです。

勿論そんなに簡単に出来る課題ではありません。
でも、技は有る程度出来る様になって来た。機会もママ捉えられるように成って来た。
技術的な物は、モウそこそこ来たのでは無いのかなと思うからです。

ということは後は精神的な部分を磨くしかない。それが今年京都に行き自分の宿題としてカナダに持ち帰った、事だからです。

残心も、心です。不動心も心です。本当の強さも、心です。
此処に来て初めて心の勉強の段階に来たな、と感じたからです。

年齢61歳。肉体的には衰えていきます。無理な掛稽古は出来なくなりましたし、飛べる距離も段々短くなり、鋭さが消えていきます。

それを補うのは心しかありません。来年までドレだけ、心を鍛える事が出来るか、勿論体もかけなければ衰えは早くなりま す。

秋の日暮れより落ちるのは早いでしょう。

剣道で一番難しい所にやっと到達した感じがします。やっと心の勉強が本格的に出来るのだなと感慨無量です。

だから自分の剣道に最近異変を感じるのです。これからが本当の修行だぞと心に言い聞かせています。

2007年5月27日(日)
50年掛かる基本

持田範士が10段が、基本を身に付けるのに50年掛かったと書いておられます。
その50年掛かった基本のマスターとは一体何なのか、ずーと疑問に思っていました。

それで自分の剣道を振り返り、50年かけてマスターしたものは何か、自分の剣道で照らし合わせてみた所、有る一つの結論が見えてきたような気がします。
勿論これはあくまで自分だけがそう感じているだけで、違うのかもしれませんが、多分外れてはいないのではと考えています。

範士は、基本は中学生の時に身につけたと思い、そのまましまい込んでしまっている。とも書かれています。
我々は普通、有る程度の基本動作をマスターしたら、地稽古や、試合稽古を積みます。それで修行の進歩を重ねていくわけですが、

基本打ちの中で基本動作とは一体何を教えているのでしょうか、例えば面打ち、で考えますと、一番難しいのが一拍子の打ちです。
構えた0の状態から、機会が来たら色も起こりも何も無くパッと100の力になる。
それが一拍子の打ち。どんな機会にでもピシッとパッと打てる。そんな打ち方をマスターするのに50年掛かったのだといわれているような気がしているのです。

自分でもやっと最近一拍子で打てるようになりました。
マダマダ完成ではありませんが、大体の機会には打てるようになってきました。特に相手の起こりに打てるようになり始めたのです。

その事と照らし合わせてみるとやはりこの一拍子の打ち方をマスターするのには50年くらいは掛かるのかなと思いました。
0から100になる一拍子の打ち、出来る様になると、中々に面白いものです。

2007年5月17日(木)
武者修行回想

昨日、カナダに帰国、あわただしい一日が過ぎた、だが、時差ぼけ予防のために稽古には出た。
そして感じた事、日本の稽古では、皆さん一応に間合いが近いと感じた事だ。昔からの教えがある、触刃と交刃、この間合いを意識してお稽古している方が非常に少ないと感じた。

特に今回、昨年の課題として、野正範士に間を詰められてどうする事も出来なかった反省があり、絶対に攻め負けず、機会が来たら捨てて打てるか課題にしていた。
それで、今回、野正範士には1mmも下がることなく、先生が間を詰められようとした瞬間、完全に捨てて打てた。つまり触刃から交刃になる瞬間に捨てて出れた。
二本目も同じ面が出た、二本とも先生の剣先は、熊の喉元を掠めて外れた、三本目も同じ機会に面に飛んだ。
範士は思わず胴に返されたがそれは遅れてタレに当った。それで先生は「ウン」と頷かれて、剣を納められた。

賀来範士にも毎回間合いで翻弄されてしまうので、気攻めと、触刃、交刃で捨てる事を意識して望んだ。今年は翻弄される事無く、熊のペースで稽古が出来た。
お二方とも生まれて初めてのことだ。昨年1年、左手と腹を意識して攻めて捨てるを意識した一年であったが、間違いは無かったようである。
両範士共、毎年のご意見ご指導が無かった。タダ、満足げな面の中のお顔が印象的だった。稽古の後、感謝の気持で深々と頭を下げた。

そこで、今年は又新たな、問題を発見したくて、10年ぶりに山口のF範士にお願いをした。八段大会3度優勝のつわものである。
同じ手法で、面に飛んだ。間違いなく、1本目と2本目は面に届いた。だが、三本目が面に炸裂したかと思った瞬間、返し業の応酬に合い、短い打ち合いの中、手元を浮かされて胴に切られてしまった。
捨てきった後の残心の問題があるようだ。捨てた打突の後は、打たれても構わないと言うのは初心者の間の事だ。八になればその所の充実も欠けてはならないと思う。

さすが、F範士、只者ではない。当たり前だが、でもF範士は非常に喜んでくれて、以前のお稽古も覚えておられて、「10年ぶりだね、腕を上げたな」とニヤリと笑われた。
来年の課題、充実した攻めから、捨てた後もいかに残心を完全に残せるか。又新たな楽しみが出来た。
F範士、来年もよろしくお願いいたします。礼を述べて、先生も嬉しそうに、うんと頷かれて、再会、熊の再挑戦を快く受けて下された。ありがたい。ありがたい。

やはり一年に一度は、京都に出かけて、自分の未熟を発見せねば、進歩などありえない。
先生方、いつまでも元気で、ご指導を心より、お願いして、感謝の辞を述べさせていただいた。

2007年4月15日(日)
剣法 邪正弁=山岡鉄舟

山岡鉄舟が残した教えに「剣法邪正弁」と言うのがある。
それにはこのように書かれている。

「夫れ剣法正伝真の極意は別に法なし。敵の好む処に随ひて勝ちを得るにあり。
的の好む処とは何ぞや、両刃相対すれば必ず敵を打たんと思ふ念あらざるはなし。
故に我体を敵に任せ、敵の好む処に来るに随ひ勝つを真正の勝ちと云う。

譬へば箱の中にある品を出すに、先ずその蓋を去り、細かに其中を見て品を知るが如し、
是則ち自然の勝ちにして別に法なき所以なり」

是を解釈すると、「剣法に別段勝つ為の特別の方法がある訳ではない。
お互いに剣を交えれば必ず勝とうと打ちかかろうとしてくるから、その相手が打ちかかろうとする所に、
随って勝つだけだ。」という意味だと思う。

では相手に随って勝つとはどんな常態か。
相手が掛かろうとする出鼻、技の起こり。必ず隙が出切る。
相手が打ってきた後、応じるなり、刷り上げるなり、変化するなりして勝てる。
相手が打ちかかろうとするところは全て隙に繋がる、それを見極めて打てばよい。

と言う事に成るのだと思う。

2007年4月13日(金)
京都大会の組み合わせ

いよいよ発表になった。本年度京都大会の組み合わせ。
今年は、鹿児島の先生だ。面識も無ければ、お名前も存じ上げない方なので、今からワクワクしている。

試合に余り肯定的でない熊自身が何故試合に、不審に思われる方が多いことと思う。
熊は、試合に出るのではなくて、立会いに出る積りでいる。
では、立会いと試合は如何違うのか。立会いは勝ち負けは関係ない。試合は勝ち負けがある。

通常、範士の先生方から、立会いと言う形を取る。観戦者は拝見と言う事になる。
熊の場合まだ教士なので事実上は審判が立ち、勝敗を決めて頂けるのであるが、熊自身、勝ち負けなど如何でも良い。
勝ち負けよりも大事な事がある。それは、京都大会は、全国から、高段の剣道家だけが集まりその気力、技、を通じ、一年の研鑽を発表する場所だと考えるからだ。

そのいわば、剣道の見識のある方々だけが集まるその場で、自分がどれだけの自分の力が発揮できるか、その点にだけ心を置いているからである。
内容が悪ければ、当然、大先生方から、貴重なアドバイスが頂ける。又、内容が例えよかったとしても、其処にはそれなりの学ぶべき点が出てくるからだ。
それが一番尊い。だから、事情が許す限り、毎年カナダから出かけていく。

それと試合に出ると言う事よりも、年に一度自分の武者修行なのだと言うこと、熊自身が上の先生方から直接ご指導を得られる貴重な時間を頂けるからである。
毎年、必ず数人の大範士にお稽古を頂く。そして、貴重なご指導を得る。これがなんとも有り難いのだ。それともう一つ、自分の、カナダでの修行が効をそうしているのか、居ないのか、確認も取れる。
先ず一年間、ナマクラをしていては通じる世界ではない。日本中の剣豪と言う剣豪が、集まる世界。お相手いただく先生方に事欠かない。

そんな訳で、一年に一度、自分の剣道の将来の方向性と、修行過程の確認、それらが目的で参加させて頂くことにしている。
だから、試合に出る出ないは関係なく、自分の剣道と心を、試す場、として、毎年お世話になっている。
それが熊の、毎年京都大会に参加させていただく目的だ。参加できる事に、感謝。感謝である。

2007年4月11日(水)
考え方

今日、熊の手元に剣道日本5月号が届きました。
その中に熊が尊敬する二人の先生の紀行文が載っていた。
一人は、佐藤博信範士であり、一人は森嶋建男範士である。

以前、熊のつぶやきやの中で世界大会の敗北を予言して、試合剣道の弊害について、書いた事があった。
日本が負けた悔しさからか、お前が手本を示せなどと、その記事を読まれ数人の方々から、異論を述べられてきたが、
ここに来て、やはり日本の大先生方も、今のママの剣道ではいかんと、同じように警鐘を鳴らしておられる。

やはり剣道は、当てっこではなく、地のある、腹と気の剣道を習得せねばならないと言う事を力説しておられる。
森島先生などは、「三年間試合を一切やめて、基本からやり直して、心の修行をしろ」とまで喝破されている。
それくらいの覚悟が無ければ日本の剣道界は良くならないとまで言われておられます。それを考えますと、
剣道修行は、自分の考え方で、その到達できる境地、天と地程差が出てくると考える訳です。

激しい、気を練る稽古が行われなくなった今、何故、親爺の実兄、羽賀準一先生の稽古振りが、貴重のものとされて再度取り上げられているのか、
やはり、市井の我々剣道かが一人一人心して、剣道の基本に立ち返らなければならない時に来ていると考える次第であります。
本来、カナダで素人剣道愛好家が、日本に向けてこのようなメッセージを発せざるを得ないこと事態日本側では猛反省をしなければ成らないのだと考えます。

何を、生意気な、と感ぜられるか、そうだ、その通りだと、感じられるかは、その方の資質でしょうが、
私の言っている事は、今、日本の大先生方が、口にしておられる事と同じなのです。
それを熊は大先生方より、少し先に口にしていただけに過ぎません。

偉そうに言うつもりは毛頭ありません。剣道を心から愛し、その無形の文化をできるだけ正しく世界に繋げたい、その一念で人生を掛けてきました。
人は熊の事をバカダと言います。子供も、親爺の真似は出来ない、と言います。勿論、熊自身とて、もう一度同じ人生を歩めと言われれば、はっきりNOと言います。
でも、今、自分の人生を振り返ってみても、後悔はしていません。逆に充実した人生だったと誇りにすら思っています。

この後どれだけ、剣道界に恩返しができるか解りません。ですが、生きている間自分が修行を続けていく事が、後進の何かの役に立つのだと信じて、未熟な修行を続けてまいる所存です。
それだけ自分にとり、剣道から学ばせていただいた事が大きい。感謝しても感謝しきれるものではありません。

2007年4月8日(日)
悟りと偶然

昔、悟りと言う化け物が居たそうだ。
その悟りが、きこりの心中を見透かして、に声をかけた。
「今お前はこう思っただろう。」
きこりは、一々悟りが煩いので、手に持った斧で撃ち殺そう考えた。
悟りは「今お前は俺を叩き殺そうと思っただろう」と又揶揄をした。
きこりは、如何する事も出来ないので、諦めて、一心に斧を振るった。
処が、どうした弾みか、その斧が手から滑って、悟りの頭に飛んで行き、悟りを殺してしまった。

これは無心について教えられた話だ。昔、熊はこの話を読んだ時、成る程な〜〜と感心していた。
処が、最近又読み直す機会があり、これは可笑しいぞと思うようになった。

それは何故か、先ず、手から斧が滑った。これは油断ではないか。
それと、手を離れて飛んで行った斧は偶然悟りを直撃しただけだと言う事。

これが本当の無心なんだろうかと言う事だ。

偶然は、無心とは違う、油断も無心とは違う。と思うに至ったからだ。

もう一つの話に、小太刀の名手、富田勢源の逸話だったと思うが、殿様の御前で技前を披露して賞賛を浴びて、その極意を問われた時、
「ただただ、さらさらと、面白く使いそうろう」と答えたと言う話がある。

さらさらと、面白く使う。其処には意志が働いているはずだ。何故なら、ただ単に道を歩いているだけなら、さらさらと使う必要もその動作もすることは必要ないからだ。
何かしら、その動作をさせる、必要とする、要素が必ずあると思うからだ。
それは、相手が居るということ。相手が居ると言う事はその相手に対する、何かしらの意志が働く。

意志の働かない偶然は無心とは違うと言う事だ。
昔、ある書物の英訳を目にした事が有った。
「無心」=エンプティーマインド、空の心。何も考えない心、と訳されていた。違うと思った。

エンプティーマインドで起きた事は偶然である。ビルの屋上から、鉄骨が落ちてきて下敷きになった。これは偶然である。
斧が手を滑って飛んだのも偶然である。其処には目的が無い。意志が無い。意志の働かない無心は偶然であり、本当の無心では無いという事ではないか。

さらさらと使うのには意志が必要だ。相手を打ち込むためには意志が必要だ。意志の無い無心は無心ではなく偶然だ。
そのことに気付いたら、悟りの話は、まやかしでは無いかと思うように成った。
偶然は=エンプティーマインド、からの心は、人間の作為が全く働かない。

剣道は相手が居る、打から何かしらの、作為が働く、だから、出鼻も打てば、返し技も出る。偶然からは技は出ない。
相手が居てそれに自然に対処する、これは決して偶然ではない。必ず作為が働く、だが、その作為に縛られない事が、剣道の無心だと思う。

2007年4月6日(金)
逃げながら打つ。

熊の場合、8つと言う立場から、殆どが元に立つ。
出稽古に他道場に行くと、前に並んでくれるのは良いのだが、皆当て逃げをしようとする。又殆どが逃げながら打とうとする。

剣道の原点は戦いである。何故真っ向から戦おうとしないのか不思議で成らない。
殆どが、打たれずに、打ちたいのが見え見えで、剣道にはならない。

仕方が無いので、此方も運動をする事にしている。
身体を動かして汗を掻けば良い。まあ、体重を減らす事くらいは役立つか。

剣道で、気で攻め合いができるように成るまでは相当時間が掛かる。それは分かるのだが、
最低でも逃げないで戦う事を遣らなければ、剣道にはならない。
当て逃げ合戦では、交通事故より訳が悪い。

剣道が強くなりたければ、絶対に逃げない事だ、下がらない事だ、前に出て戦う事だ。
間合いの駆け引きなんぞにウツツを抜かしていたら、上手さは身に着いても、強さは身に着かない。

人間修行として、剣道を身に着けるなら、器用さや、上手さではない、どんなに辛くとも逃げない事を身に着けなければ成らない。
どんなに辛くとも戦う姿勢を崩してはしてはいけない。人生なんて、問題ばかりだ、それから逃げないで真正面から向き合う事でしか解決が出来ない。

逃げる事からは何も解決はしないのだ。逃げない努力、真っ向から取り組む力が人間を強くするのだと確信する。

2007年4月4日(水)
事理一致

事理一致=じりいっちと言う教えがあ ります。

事=は仕事、体の働き、動作、所作、と考えれば良いと思 います。
理=は心と解釈される方が居ますが、理は理合い、合理=理論と考えれば容易に理解できると思 います。

勿論、理の深い所には、宇宙の大真理にまで発展するので、心という解釈は正しいので すが、あまりのも抽象的で解り難い。
だから当面は理=合理性に基いた理論と解釈して間違いは無い と思います。
 

では、その言わんとする所は何か、
つまり体の所作動作を合理的に働かせ 無ければ、いけませんよ、と言うことだと思います。

 

試合や、お稽古を拝見していて、中には非常に不合理な動きをする人が居ます。
その人は自分の進歩を自分で止めている。と考えられます。

現在、我々が理合いだと言って、先人の教えを紐解いていますが、昔は真剣勝負の中から発明されてきた経緯が在ります。 一つ間違えば命が無い。

ですから、それはものすごく真剣に研鑽されたであろうことは容易に想像が出来ます。

 

だから昔の教えや、理合いには真理が隠されていると熊は確信しています。
それを如何に探求していくか、それが今、自分に取り非常な楽しみになっています。


昔、熊が居合いを習っていた頃は、「それで、真剣勝負が出来るか、 」という事が、前提に在りました。最近は、試合に如何勝つかが重要視されて、見せる居合いになって来ていると感じて居ます。 如何に所作を美しく見せるか、それがポイントになってきて居ます。


剣道でも、竹刀で当てれば良いという風潮が蔓延して、真剣勝負の理論とはかけ離れた様相を呈しています。

という事を検証してみると、もはや、剣道は事理一致は考えなくても、運動神経、反射神経で剣道をすれば良い時代に成って来て居ます。


しかし、そんな剣道でよしんばその場勝てたとして、本当に 生涯剣道に繋がるか、と考えますと恐らく、答えはNOと言わざるをえないでしょう。

 

他の運動競技は80を超えるまでは続けることが難しいでしょう。是は剣道だけが持つ特権です。運動神経、反射神経、体力だけに頼っていては剣道は続けられません。

先人賢哲が命がけで発明探求してきた真理をないがしろにして、本当の剣道の発展など、嘘で固められた普及発展に他なりません。


それが証拠に、どれだけの回数、審判規則が変更されたか、本来人間同士、学びの場としての試合であれば、審判規則など必要が無いはずです。

剣道は、事理一致の追及、探求してこそ、本当の剣道に成るのだと考えています。

正しい理論にのっとった剣道、それの追及、普及が一般に、求められているような気がして成りません。


2007年4月1日(日)
人間の本能

毎回の稽古で感じる事。
人間は如何に弱いか、と書き出せば、何と大仰なと捕らえられるかもしれない。
問題はそんな大げさな事ではない、たかが剣道である。見た目、竹刀の叩き合いである。

そのたかが竹刀の叩き合いで有るが、如何に皆叩かれたくないか、この点を見ていくとその弱さが見えてくる。

剣道の敵は、相手ではない、自分に在るということを良く 云われるが、自分ほど厄介なものは無い。

だから昔、在る禅の高僧が上手いことを云った。


「心こそ、心迷わす心なり、心に心 心許すな」
 

自分の心が自分の心を迷わせる元だから自分の心に迷わされないように気をつけろ。
と言うことだ。

稽古をしていて捨てる、と言うこともよく聴く言葉だ、処が実際は、どうか、ややもすれば打たれずに打とうと、 面をかばいながら打って来るのが居る。


捨てる処ではない、剣道で打たれずに打つ方法などありはしない。それなのに、自分をかばいながら、変則的に打とうとする。


見ていて醜い。いつも思う、そんなに打たれたくないのなら、面を着けるなと。面をつけなければ先ず打たれる事が無い。

面を着けて、打たれる事を覚悟の上で、自分の道を切り開く、だから修行に繋がる。打たれずに 打とうと考えている間、修行になぞ、絶対になら無い、むしろ逆効果にしか成らない。


何故か、自分の心を欺いているからだ。宇宙の大真理にそむいているからだ。 正しくない事を学んでいる事になるからだ。是は怖い事だと思う。

昔から剣道界では当たり前のように言われている、「打って反省、打たれ て感謝」本当か?と、聞きたくなる人が多い。

 

だまし討ちを平気で使い、打たれる番に成ると逃げ回り、三処避け見たいな姑息な事をしてまで、打たれる事を嫌う。こんな事が本当に人間形成にお役に立つとお考えか。


剣道修行が先ず人間形成に繋がる物で有るならば、先ず以って打たれる事を嫌っていてはできるものではない。 人を騙してまでも打とうとする卑しい本能を捨てなければ、出来る物ではない。

 

本能が持つ、 騙し打ちをしても勝ちたい、逃げ回っても、打たれる事を嫌う、その本能を克服する事が、剣道修行 では無いのだろうか、それを鑑みると、別世界が見えてくる。

 

剣道修行の本願は本能を克服する所から始まるのだと考えている。




2007年3月29日(木)
最近の稽古

最近,此処で機=気について、昔の教えを紹介していた。

原文のまま載せて、考察は各個人にお任せした方が良いと考えたからだ。

受け売りでは身に付かない、自分で考えて感じた方が良いに決まっている。と考えた。
別に意図があったわけではないが、偶然自分の稽古に照らし合わせて、考える事が多かった。

最近の稽古でこの気を考えながら取り組んでみている。
そこで気づいた事がある、昔の道歌に「気で攻めて足で運んで打てば上々」と言うのがあり、その通りだと考えて、打突を試みていた。

 

だが、其処には大きな落とし穴が潜んでいた。今までそれに気付かないで居たのだが、
在る、画像からヒントを得て、まねて見た。勿論着け焼刃が簡単に身に付くわけも無いが、段々回を重ねるごとに手応えと、実感としての攻めから、打突が生かせるように成り出した。


それは如何言う事かと言えば、今まで、触刃から、交刃まで攻めて、攻め 切った積りで打突に出ていた積りで居たが、打突体制に入った瞬間、攻めが消えているのではないかと言う 疑問が沸いたからである。

確かに、その攻めが通じた場合には何となく打てていた。しかしそれはあくまで偶然でしかない。相手が弱いから通じただけで、在る程度確り出来た相手には通じない。


今まで通じたと思っていたのは単なる偶然の重なりで打てていただけではないのかな、と言う疑問が沸いたからだ。

だが最近、此処に来て、稽古中ある事に気を配りながら稽古をしてきた て、是でほぼ間違いがないと言う、確信に近い手ごたえを感じてきたからだ。

これを、道場の館員に教えたが、恐らく理解は出来ないであろう、 熊が約50年掛けて今、感じ身に着きだしたことがそう簡単に皆に解るはずが無いからだ。
だが、勘のいい人はわかるかも知れないので、一応ご披露しておく。

攻め、是を一輪車に乗せた土と考えてもらいたい。
の載せた土が完全に相手の所まで運ばれているか、その土を相手に頭からかぶせる事が出来るか如何かと言う事だ。


殆どの場合、交刃の間まで攻めて、機会が来たら、打突に出る、その瞬間皆はその土をそこでダンプして、空の一輪車で打突に転じている のではなかろうか。

この違いが解るだろうか、相手から、技を返されたり応じられたり、出鼻を捕らえられるのは全て、空の一輪車に成った証拠ではないか。


と思うに居たり、今その土をいかに相手に届け、頭からそれをかぶせる事が出来るか、それに心を砕いている。 それが何と無く、出来るようになってきた。

それは何故確信できたか。最近の稽古で熊自身一段強くなったと感じ取れるからである。

 

打たれ無くなって来ただけでなく、黒、白両熊に可也の確率で中心を割る面が炸裂し始めたからだ。


あくまで感覚の話なので、これ以上の説明は難しいのだが、腹の収まり、左手の納まり、丹田の力、 是を最後まで緩めないで打突をする。それが大きな鍵になった。

2007年3月28日(水)
機&気

万物を生成する根源である処の勢気である所の気と、事の起こる切欠と成る、キザシである所の機が合せて適時行われるものが、真の気合である。
 

時期を得ないで出す元気は、から元気というので、大丈夫の恥とするものである。

血気の勇などは匹夫の者で達人の恥ずる所である。
猛禽荒鷲はその節を博つと云うが、この事は剣道に応用し得る貴重な事実である。

鷲は心得てやっているのではなく、天理に任せて体験で遣っているので有るが、自然に相手に逃げ腰を作らせて、乗ずる機会を掴むのである。
 

襲うべき時期を作って攻撃をしたことになるのである。

2007年3月24日(土)

機は大事のものなり、気を機と云う。この機は心善悪二道無きなり。
 

戸より外え出れば二道となる。

この機を能く見付くべし、鈍成るものには、この機見えざるなり 。

 

犬はよく人の機を知るものなり。
 

犬を恐るる機あらば、犬必ず嚇す。恐れざるざる人を知らぬ振りして通すなり。

又、打つか追うかする機在れば立ち退くなり。
 

人として、この機を知らざる者愚の至りなり。

又、万事に通ずる人の機は少しも知れぬものなり、是を名人の位という。

 

剣術に於いても達人の機は更に知れざるが故に、知らず知らずして十分に負くるなり、

 

考うべし。

2007年3月20日(火)
剣風

昔、榊原正範士に聞いた事が在る。
「剣道八段になると、それぞれの個性が剣道に出てくる、それがその人の剣風に成る」と
熊自信はマダ、自分がどんな剣風を目指して居るか掴めないで居る。

昔の理想から言えば、榊原正範士の正確無比な技前、端正な構え、羽賀忠利範士の流れるような足裁き、切れるかと思うほどの手の内のさえ、上品な剣風、西善延範士の、怒涛のような強さの剣道。


これを足して、MIXしたものに憧れていたのだが、そんな剣風は真似が出来ない。そんなことが最近ようやく解った。何故か、中身が無いからである。中身が違う。

だが、最近、自分で、こうだ、こうなりたい、ということが、段々はっきりしてきた。上辺だけ、大範士の真似をした所で、所詮それは付け焼刃、その真似事が、自分の本当の実力になるとは到底考えられないからだ。

そこで先ず自分が最初に何を身に着けなければ成らないか、それは強さだということに気付いた。これが一番大事だと気付いた。
その強さの中からにじみ出てくる風格。

これが無くては、風格なぞ作り物、飾り物でしか無いと言うことに、 思いが及んだ。何ぼ美しい姿だろうと、強さが無ければ、アイツは格好だけだと言われてしまう。

人の評価が、如何で在れ、構わないのだが、やはり目指せるなら、強くて美しい 剣道が理想ではないか。


だが、強くて美しい剣風の中にも色々在る。流れるような、流麗な 剣風も在れば、巌の身のような力強い剣道も在る。そのどちらに行こうか考えたが、熊の性格としては、どちらかと言えば、巌の身を目指したい。

どんな怒涛の荒波でも、ドンと跳ね返す岩礁。そんな強さが身に付けば、'自然と、自分の剣風が定まってくると、思うようになった。

 

器用さで、真似る剣風でなく、自分の体内、心から発動する魂の叫び、それが剣道で表現できた時に初めて、熊が熊としての剣風が出来上がるのかも知れない。

 

それを目指して日々是精進。楽しみな事だ。

2007年3月15日(木)
宿題

熊が参加している、剣道家の集まるサイトが有る。


そこで、有る人が、全日本選手権50回大会の 模範演舞として9段範士に若手七段、八段が三人がかりが行われたらしい。そのときの画像を探し 出してきて、サイトに載せた。

熊の手元にはNHKの50回大会の試合の模様を伝えるビデオが有るが、その 画面にはその部分は放映されていなかった。
 

いみじくもその画像は韓国で放映されたものであるらしい。ハングル文字の見出しがでかでかと出てきた。 今や韓国の方が剣道、何が大事か解っているらしい。

 


その内容は、恐らく常識を覆すには十分な内容で、驚きと感動すら見るものに与える内容であった。
熊は月曜日と火曜日が休日である。その画像が貼り付けられたのは二日前だった。
 

そして今日店に出て、早速、白熊にその画像を見せた。白熊は以前その九段の稽古を目の当たりに見たことがあり、いまもっちその範士の稽古は記憶に新しい。

 

それで白熊も熊と同じ感動を得たのか、その画像を養心館の生徒に 転送配布した。
そして一言、この画像を見て感じたことを、レrポートとして、コメントせよと、書き添えた。
 

そして今日の稽古で念を押した。 「観た、ああ素晴らしかった。」のコメントはダメ
内容を把握して、何に感動を受けたか、何を感じたか具体的に書き記せと宿題を出した。

これは初段以上のメンバーに課せられた宿題だ。
その画像の見方、感じ方でそのメンバーの剣道に対する認識 度ががわかると判断したたからだ。

今や、世の中から九段は出なくなった。となれば、この映像は永久保存版にしてもあまり有る価値が有ると思う。


京都大会でも九段の立会いは見れなくなった。心無い一部の役員がまた貴重な文化を崩壊してしまったようだ。


その責任は末代まで恥ずべき構造改革として、人々の記憶に残るに違いない。 いや、今の日本簡単に忘れ去られる時代だ、その方が気楽だ。

 

そして、韓国の方が何が大事で、何を残さねば成らないかを知っている。
一度壊された文化は中々元には戻らない。 残念なことだ。


韓国のこの画像を放映していただいた方々心からに感謝の意を述べたい。

この放映がなければ、会場に居なかった全国の剣道家は誰も知るすべが無い。


今や、剣道の試合だけでなく剣道文化継承までまで韓国に遅れを取ったといわれても仕方有るまい。

 

海外に居ると、こんなことばかりが目に付いてしまう。日本は確かに変わった。

2007年3月12日(月)
剣道形修練の在り方

姿勢を正し、丹田に気を満たし、敵を呑み、あらゆる技に乗り勝つと言う威力溢れる気位を以ってすること。

観の目強く、見の目弱く、呼吸を整え、長呼吸を以ってすること。

順序に従って動作をするに非ず、相手の気を見極めることに努力して行うこと。(機は気なりと言う。相手の気を見極めること)

心気力一致の一拍子の打ちを心がけること。

相手を打った後も、心は体を離れず、気は四方に配ると共に残心に心がけること。

互いに技終了するも、気を緩めることなく、心気を込めて元に復すること。

常に気を抜くことなく、絶えず丹田に心気を込めて、種々の動作は腰を中心にして為すこと。


剣道形は剣道の基本を示したもので、気迫、呼吸、目付け、間と間合い、気と太刀の攻め方、打突の機、掛け声、打ち方と太刀捌き並びに手の内、 体裁き、理合い、残心など剣道の諸要素を見事に表現し、無駄を省略したものである。
上記の諸点を良く弁えて修練する事としたい。


                  剣道、居合道 範士 羽賀忠利 記

 

これを、読んでいて、剣道もこのように出来たら最高だと思った。

熊は、これを形は勿論、剣道に於いても、遣る努力をしよう。と心に誓った。

2007年3月9日(金)
試合に臨む八ヶ条
幕末の剣豪 森要蔵の教えに曰く

試合に臨むに、八ヶ条の法あり、

1 敵の粧を見ること
2 敵の位を見ること
3 敵の癖を見ること
4 敵の起こり頭を心で押さえること
5 敵より遠く、我より近くを考えること
6 敵を釣り出して打つこと
7 敵強く守る時は虚実を使うこと
8 敵手元強気時は関わらぬこと
次の物事の限界を知り無理せぬ事大切なり。と有ります。

1 粧(よそおい)敵の試合に及ばぬ前の様子を見ること
2 位(風格,立ち会う所)を見ること
3 癖(技の自然お流れ)を見ること
4 起こり頭、(太刀、先を)心で抑えること
5 敵の太刀が届かぬ処、自分の打ち込みに近い処
6 誘い出すこと
7 虚実(敵の心を動かさせること)
8 自然の動きを見切ること。

と解釈しておけば良いのではないだろうか。
 

 

2007年3月6日(火)
人間の 風格

昔、宮本武蔵が、尾張の槍術師範の家を訪れた時、
丁度玄関に居合わせた、槍術師範が、「これは見事なり」と言って、しばし、 其処に立つ宮元武蔵を眺めていた。

そんな逸話が残っています。これは、尾張柳生家に伝わる話なので本当の事らしい。


勿論、見る方にもそれだけの眼力が合ったであろう事は、容易に察しが付くが、
少なくとも剣道を学ぶ人は其れなりの格が現れるようになりたいものだと思う。

昔、熊が、肉屋を開業する一年前に、地元郊外のスパーでカナダ式の肉販売や、仕入れに関して勉強する為に、働いた事が有る 。そのスパーに、何人かに日系人の方々がお客としてこられていたが、その仲に、一人のおばあちゃんが居た。

その方は勿論、英語が話せない。おまけに息子の奥さんが白人さんなので、非常に気を使う。同居はしていないのだが、やはり色々文化の違いで、悩んで居られた。

熊は、そのおばあちゃんと旦那様にお会いしたと事があり、こちらではすき焼き肉、薄切りの肉が販売されていないので、熊が自分の小型のスライサーで切ってあげた事が何回か有った。

そんな事でおばあちゃんは、スパーにこられる度に、肉の調理場を覗かれるようになった。熊が居れば買い物をする、居なければ帰っていかれるのだ。

そんな事が何度か続いた時に、そのおばちゃんは、熊に、 「貴方は人間の格が有る」

と言われた。突然の事だったので驚いたが、何故そう感じられるのですか、と訪ねたら、

その方の父上が武道を遣っておられた軍人さんで、ご立派な方であられたとか、
つまりいつも威風堂々とされたいた。と言われるのである。

熊は正直驚いた。自分で別に威風堂々と作っているわけでもなく、おまけに客商売だから、できるだけ丁重に何方とも接して来た積りである。

だけどそのおばあちゃんには何かを感じさせるものがかもし出されていたのかもしれない。

ありがたいと思う反面、恥ずかしくも有ったが、これも剣道を長年遣ってきたお陰だと感謝した。


人間、どんな処で、どんな風に人に判断されるかわからない。

昔、持田範士が道を歩いておられた時に、その姿があまりにも立派だったので、タクシーでそばを通った、踊りの師匠が、車を止めて、わざわざ範士の 処まで戻られて、
 

「貴方様は何をなさっているお方ですか」と訪ねられたと聞く。
お相手も踊りの師匠と言う事で、其れなりの慧眼はお持ち で有ったとは思うが、これも素晴らしい話ではないか。

剣道人、やはりどこかが違う、と感心される人間になりたいものだと思う。

2007年3月5日(月)
恥ずかしい話

剣道人が集まるサイトで自分の構えを載せて、みんなの意見を聞いていた人がいた。
そこで昨日の稽古のとき、自分の構えを写真に撮ってみた。
家に帰り、一晩開けて、その写真をパソコンに入れて見てみた。

つい最近まで、体重が82kg、身長が175CMまあまあ自分で言うのも何だがいい構えをしていると思っていた。

処が写真を見て驚いた。まるで、トドが竹刀を持って構えている。おまけに背中が丸い。意識して伸ばしていてだ。


確かに最近太りだした。今88kgは有る、無残に自分の中の構えのイメージがどんでん返しを食らった。


年とともに、体の線が崩れだすのは致し方の無い事だが、それにしてもひどすぎる。
稽古中、息子達の構えを見て、さすが熊が教えた構えだと悦に入り、自分の脳裏の残像もそうで有るはづであった。

処が、そうは問屋が卸さない。でもいいときに気付いた、やはり体重を落として、今一度昔の構えに戻さなくては。 達磨さんでは、手も足も出ない。


油断はしていない積りでいたが、不断が油断の連続だったようだ。
剣道は上達すると、竹刀を丸く遣うようになるが、体まで丸くする必要は無い。

いやはや、あちら直せばこちらが悪くなる。これから、もっと大変になるのだろうな。

老いとの真剣勝負、負けて成るものか。と、あがいている。 滑稽な事だ。

2007年3月1日(木)
三攻一致

笹森順造先生の教え。「切っ先、身体、気合」

 相手を攻めるのに三つの攻め道具が有る。
この三攻一致を習う事が大切である。
やたらに切っ先を振り回したり、足を踏み鳴らしたり、
掛け声でわざとらしく脅かすのは皆下手な色となる。

目に見えず耳に聞こえず催しもなく、空なる所から攻め立てても、
何となく相手の心に鋭く響いて恐れられるようにならなければ成らない。
それは練磨の功によってのみ得られる。

三攻一致し、良くせめても、攻める事だけに心が捉われず、
相手から打突が出るのを防ぐ事も忘れず、
相手の攻めが出たら攻め返すか、外すか、
引き寄せるか、また、間を離すかすべきで有る。


それでも相手が深くせめてせめて来るならば、相手の間を破り踏み込み、
わが勝の間とするのである。攻防に当たっては有効な攻めと安全な守りが、
表裏するように心がけて稽古を励むべきである。

と教えられています。

 

しかし、熊は下手ですから、「間を離すかすべきで有る」処は遣っていません。

何故なら、間を離したとき、つまり引いた時に、不利になることが多いからです。

 

「それでも相手が深くせめてせめて来るならば、相手の間を破り踏み込み、
わが勝の間とするのである。」

 

これでは相手が攻めてきたときには勢いがあり、相手の間を破り踏み込むことが非常に困難に成ると考えるからです。

 

下がる方と、出る方、出るほうが勢いが有る、それを盛り返すのは余程の実力差がないと出来ません。

 

それならば、熊は相手が出てくる処を(出鼻)捕らえて、討ち取るか、打たせて取るように心がけて居ります。

 

何故なら、どんな名人でも打つときは必ず力が入るという教えも有るし、(出鼻の機会)

引いた分の力を盛り返すのは莫大なエネルギーを消費しなければならないからです。

 

これは長年の経験からですが、10cm下がれば20cm前に出なければ盛り返せません。

何故なら10cmだけ前に出たら元です。それでは攻め返した事にはならないからです。

 

三攻一致で攻めにせめて、出てきたら討ち取る、出てこなければ、崩して出て行く。

間の駆け引きではなく、地の力、底力で怒涛のような攻めを考えて稽古しています。

2007年3月1日(木)
記念日

今日は有る意味での記念日です。
今日の稽古で、初めて、アキラに完璧な面を頂いたからです。
通常、彼は面を打つ前に色というか、何か相手に揺さぶりを掛けるようなしぐさをしてきます。

勿論今日の稽古でも大半がその面うちでした。
その場合はこちらは全然心に響かないし、その色を捕らえて打つことにしています。
その点では相手の色を捕らえる、良い勉強材料でした。

処が今日何を間違えたか、こちらの攻めに対して、何のてらいもなく、攻めのセの 字を完全に乗ってきました。


熊の完敗でした。アキラもその面がどうして出たのか、偶然なのか、解らないようでした が、打てた事は、事実です。手ごたえは、完璧に感じたと思います。

彼は打った後、如何して打ったか、如何して打てたか、全然解らないと 告白しました。
完全に無心で捨てて、打てた面だと思います。


偶然であれ、何であれ、そう言う面が出たということは、また必ずその偶然が出てきます。なぜなら体が覚えているからです。その偶然の面打ちがかならづ 又出てきて、
その偶然が段々出てくる頻度を増して、それが本物になっていくわけです。

 

但しその偶然は努力無しに出てくる、まぐれ当たりとは完全に違ってい ます。
彼もやっと体の力みの消えた打ちが出始めました。嬉しい事です。
また、熊が真剣に成らざるを得ない相手が増えてきました。

ありがたい記念日です。

2007年2月26日(月)
宮本武蔵  熊の独断と偏見

修行法九箇条 = 現代風に改めれば

よこしまなき事を思うところ  = 邪心を抱くな、直心であたれ

道の鍛錬するところ = 一生懸命稽古をしろ

諸芸に触るところ = 他の武芸の理合いも知れ

諸職の道を知る事 = 他人の遣り方を研究しろ

物事の損得を弁える事 = 物事の損得を考えろ

諸事の目利きを仕覚える事  = 冷静で的確な判断を出来るようになる事

目に見えぬ所をさとって知る事  = 観働きを鋭くして予知能力を高める事

わずか成る事にも気をつけるこ事  = 小さな変化も見逃さず、気をつけること

役に立たぬ事をせざる事  = いらぬ事は、言うなするな

2007年2月24日(土)
盗む

盗む、あまり良い言葉ではない。
普通、盗みを働けば、罪に成る。当然の事だ。
だが、剣道において盗む事は、良い事だ。

処が盗む事を知らない人が多い。
それは、指導者があまりにも親切に成りすぎて、教えすぎるからだ、と聞いたことが有る。


そうだろうか、教える方としては、生徒に少しでも早く上達して欲しいと願っているはづだ。

だが、習う方は、ああ、またか、またその話か、位にしか聞いていないのでは無いのだろうか。


だから進歩が遅いのではないだろうか、最近、剣道愛好家の意見交換の場で、審査に落ちて、悩んでいる人に出会った。


悩む事は、良い事だと思う。悩む心が有るから、何かを得ようとするのでは無いのだろうか。

熊が昔、三ヶ月に一度、榊原正先生にご指導を頂いた。先生は刑務指導教官で中部 管区の刑務所を指導に廻られていた。


その先生を駅まで送り迎えをしていた、 刑務官で熊の道場仲間が先生に言われたそうだ。


「熊は、良いにつけ、悪いに付け、毎回稽古が変わっている。それに付け、お前の稽古はいつ見ても変わらないな。」と叱られたと聞いた 。

送り迎えをしていた彼は、全国刑務官大会で三位に入賞した事の有る逸材だった。


熊の田舎のその当時の道場では彼は三羽カラスの一人だと歌われていた。


その彼等は職場に道場があり、その気に成れば毎日でも稽古が出来る環境にあった。

彼も、熊並みの稽古はしていたかもしれないが、昇段が遅れた。


五段は彼の方が熊より3年早くなった。六段では熊が追い越した。


彼は六段受験を十数度落ちた。七段審査もものすごい苦労をし て、最近やっと七段を通った。

何時も彼に会うと思う、榊原先生が言われていた、十年一日の如き稽古ではいけない。

毎日、日々是新たな稽古でなくては成らない 。

 

熊は思う、良いにつけ、悪いにつけ、盗もうと言う気があればこそ剣道が変わり、上達するのではないのだろうか。

 

剣道は人から盗めば盗むほど上達が早くなる。おまけに、ご褒美になっても絶対罪はならない。大いに盗もうではないか。

2007年2月21日(水)
頭をを振るな

今日の稽古、1級のヤス、面を打たれそうに成ると、頭を横に振る。
熊が叱った。首を横に振ると、相手が見えにくなる。それと首をかしげる事は、
心が遣られた証だ、そんな事で逃げても何にも成らない。

心を打たれたら終わり、負け。頭を振って逃げるより、振らないで打たれるまで相手の打ちを確りと見届けろ。それが心を崩されない初歩だ。


だが、言うはやすいが、これが中々難しい。出来ているようで出来ない。
先ず何だかんだ言う前に、これを遣らない癖を付ける。

それが出来たら、剣道における心法はほぼ出来上がりだ。
脅かされない、ハッとしない、打たれるまで相手の太刀筋を見れるだけの度胸、それが出来たら何ら怖いものは無いは ずだ。
 

怖いから首を振る。ハッとするから首を振る、脅かされたから首を振る。つまり心が崩され たのと同じなのだ。

そんな簡単な事の稽古から、不動心、平常心の稽古が始まる。

2007年2月20日(火)
剣道は手で打つ心が邪魔をする。

剣道の古歌に曰く、
「手で打つ心は初心なり、足で打つこそ上手と知れ」と言うのが有る。


人間面を着けると、どうしても叩きたくなる、打たれまいとする、恐怖心の表れか、負けたくない我が出るか。

下手な人ほどバタバタする。だが、その割には打ちが定まらない。そして、例外に無く、叩かれたら痛い。
 

力がついつい入るのは、殆どがある種の恐怖心から来ている事が多い、その次に異常な興奮状態になる事だ。それもまあ、恐怖心と言えなくも無い。

剣道における技術修行は、殆どが軟らかい力の抜けた技を、身に付けることに費やされる。


それも何年も何年も掛かってやっと幾らか出来るように成るのだ。莫大な時間が必要だ。


10年より20年20年より30年。勿論個人差が有るし稽古量にも寄るし、工夫の仕方でも効果に違いが出てくる。

だが、長年稽古したほうが間違いなく力が抜けることだけは間違い無いようだ。

これは何故だろうか、熊は打たれた回数だけ力が抜ける。と生徒に言う。打たれた回数、稽古した回数。面を着けた回数。何のことは無い、なれるしか方法が無いと言う事だ。

100回面を打たれた人と、1000000回打たれた人では、当然、打たれた経験が違い、その分恐怖心がなくなっているはずだ。


打たれ慣れる事でしか経験が詰めない。どんな名人でも打つ瞬間は力が入ると言われている。

打たれる恐怖心、打ちたい我欲から抜け出す事が、脱力の一番の早道だと思う。
脱力が出来れば出来るほど、剣道は強くなる。

手で打とう打とうと考えて居る間は、上達はおぼつかない。それだけは事実だ。

2007年2月19日(月)
昨夜の稽古

試合い後の為か、集まりが少ない。
大人8人子供5人子供一人に、4段クラスの指導員を一人ずつつけて45分間、
フルに打ち込み掛かり稽古を遣らせた。

大人の初心者は熊が見て、面、籠手面を中心に打ち込みを遣らせる。
大人からの稽古はどうしても硬さが出る。だから出来る限り力まないで打たせる方法を指導する。
Kさんは、中々勘のいい人で進歩が早い。楽しみな存在だ。

もう一人の相手はヤス、最近つとに力をつけてきてはいるが稽古になるとやや力む癖があり、
二人とも力を抜いた打ちを遣らせる事の同じ問題を抱えているので指導は手間が省ける。
稽古に入り、人数が少ない分、皆二度三度と掛かってきた。

熊は、よほどのことが無い限り、一人、一人は長くやらない、というより長く持たせないと言ったほうが良い。


短い時間で相手の息を上げてやる、そしてまた気分を変えさせて掛からせる。
疲れた体と頭で長く続けても意味が無い、集中力が有る間は稽古になるが集中力が落ちたら稽古にならないからだ。

だから短い時間に最大限の力を出させるように仕向けていく。
それを受けて立つ熊もしんどい稽古だが、それを遣れないようになったら熊の剣道も終わりだろう。

大昔、某範士が80過ぎて、現役の若い8段を8人使えなかったら本物ではない。といわれたそうである。


勿論、の剣道は」、熊はそんなレベルではないが、少なくともそれに近づける稽古努力は続けなければ成らないと考えている。

2007年2月17日(土)
気迫

熊が若い頃、気は猛々しいものだと考えていた。それが気迫だと思っていた。
確かに、若いうちは元気で多少荒々しい方が気迫が出る。
猛獣が、獲物を狙うような気迫が大事なのだと考えていた。

確かに、剣道は戦いで有るから、勇ましい方が良いに決まっている。
だが、七段を拝受した頃から、師匠に言われた。

気はもっと澄んだ物ではなくてはならない。でなければ自分を見失うぞ。と言われた。
それで少し悩んだが、確かに最近は気は澄んでいなければ、本当の気迫は出ないことに気が付いた。

勇ましいのも猛々しいのも、通り超えそれで初めて澄んだ気の世界に入ることが出来る。
初めからレベルの高い気の世界になんぞ入ることは不可能だ。

宮本武蔵が言う
「戦気 寒流月を帯びて澄めること鏡の如し」


の境地に到達する為には、荒々しい、猛々しい、勇ましい気迫有る稽古を通じて、それを超越するところに初めて澄んだ気が出てくるのだと思う。


其処に来て初めて本物の気品とか、気位とかが出てくるのではないのだろうか。

マダマダ遠い境地では有る。

2007年2月16日(金)
剣道考察日記
始めまして、熊です、未熟を省みず、剣道について、色々の角度から、考察をしていきたいと思います。皆様の忌憚の無いご意見をお聞かせいただければ幸甚です。よろしくお願いを致します。

今日は技について、技は、大別して、先に仕掛けていくわざと、対の先、出鼻、起こりを打つ場合と、
相手を引き出して、後の先、応じ返して行く技に分けられると思います。

技は状況に応じて、無限にあると思います。ですが現在行われている、我々の剣道は、面、籠手、
胴、突きの四箇所だけ打突が認められています。

そこで、後の先の場合は、その四箇所を防ぎ返せば良い訳ですから、技が色々有るとは言え、使う合理的な業は絞り込んで限られてくると思います。また、極端な言い方をすれば、絞り込んで、得意技にまで仕上た方が、有利に成ると考えています。

では面、面なら応じ胴、(面すり上げ面、OR 面返し面)この技は極端に似ています。この二つ。
籠手、なら、籠手すりあげ面、籠手返し面。この二つ。自分の剣先が左右どちらに有るかで決まる。
突きは、確り中心を捕らえて構えていれば、相手の攻撃をナヤス事が出来る
胴も構えが崩れて居なければ同じく打ち落とすことが出来る訳です。

と言う事は、殆ど、面と、籠手をカバーできれば80〜90%以上の確率で相手を攻略できると言うことになりませんか。

出るときは、相手を崩して、先の先。懸待の一致の場合は出鼻、、引き出した場合は応じ返し。
とどのつまりこれだけの技を稽古すれば無駄が省ける。となまくらに考えています。